私の親戚はゼネコン関係に勤めていたものが多く、私も大学を出たらゼネコン関係の仕事をしようと思っていました。
しかし、大学1年の時にゼネコン関係の会社を見学に行った際、現場の業務の多忙さを目の当たりにし「どうせ仕事人間になるなら得意分野に進もう」と決意致しました。
その為、大学を出てから1〜2年アルバイトをして学費を貯め、調律技術学院を卒業した後、東洋ピアノに入社致しました。
ピアノの設計をする為に東洋ピアノに入社した私でしたが、ちょうど入社した頃に業務部の社員が休職してしまったので、数年間業務部で外注部品の選定及び発注などの担当をしておりました。
その後技術部に異動し、ようやくピアノの図面を引くまでに至りました。
当時は遠回りをしてしまったという気持ちもありましたが、ピアノという楽器は非常に多くの部品から成り立っている為、外注の部品も多く使用しております。
業務部の時代に外注部品の多様な技術が頭に叩き込まれたことで、後のピアノの設計に非常に役に立ちました。
私は、業務としての設計はしません。
ピアノ技術者が作り上げた美しい音は、演奏を聴いているとすぐに慣れて良い音とは意識しなくなってしまいますが、ピアニストの奏でる生きた美しい音は、いつまで聴いても飽きません。
その為にはピアノに音楽を表現する機能がそなわっていないとなりません。
ピアノはただの道具ではなく、音楽という芸術を表現するための道具ですから、私はピアノの設計という行為を通じて、それを奏でる者に大きな表現力を与えて、より美しく、素晴らしい音楽を奏でる事が出来るようにしたいと思っております。
音や振動の性質は、非常に奥行きの深く不思議なものです。その為ピアノの鳴り方(振動の仕方)も、単に鳴る・鳴らないでなく距離を置くとあまり聞こえなかったり、逆に遠鳴りがするピアノがあったりと様々です。
アップライトピアノの音響状態において、より最適な振動状態にすると発する音がより指向性を帯びる事に気づいたのをきっかけとして、響板のあたらしい振動のしかたをするピアノの開発に取り組んでおり、このピアノを完成させるのが目標です。
私の親戚には2人ほど調律師がおり、幼少のころからピアノや、ピアノの調律の仕事というものをすごく身近に感じながら育ちました。
その親戚の1人が私の叔父で、進路に関して叔父に相談したところMORIピアノの森技術研究所を紹介され入社致しました。
しかしながら会社は大手メーカーに買収されてしまい、自分の望むような仕事でなくなってしまったため退社しました。
その後、曽利田巻線というピアノの弦を製造する会社で2年半程修行を積んだ後、当時東京にあった日響ピアノに入社しました。しかし、日響ピアノは販売店であったため、グランドピアノの技術が思うように身に付きませんでした。
グランドピアノの技術を充分に身に付けて調律師の資格を手に入れたかった私は、グランドピアノも作っている東洋ピアノ(APOLLO)に、研究生として1年間のお約束で入社致しました。
ここで1年間の研究生の期間を経て、1974年にようやく日本調律師協会の調律師の称号を手に入れることが出来ました。
その後、東京に戻り日響で働こうと考えておりましたが、この1974年、ピアノ業界は年々うなぎ上りで生産量がピークに達しようとしておりました。
そんな状況であったことも手伝い、当時の社長に技術を買われ、もう1年うちにいてほしいと言われ東洋ピアノにいる期間を延ばすことにしたわけですが、それがもう1年・・・もう1年・・・と期間が延び、気が付いたら40年以上経った今日もこの会社でピアノを作り続けております。
私はこれまでのピアノ人生で、張弦に始まり、アクション取り付け、整調、調律、整音といったピアノの製造に必要な一連の技術のほとんどを身に付けました。
昨今におきましては時代の流れから、中古ピアノの修理・再生の仕事をする事も多くなりましたが、私が行うすべての仕事において共通する事は、1台1台異なる音色の美しさを、これまで培ってきた経験と技術で最大限引き出すよう、気持ちを込めて作業に取り組んでおります。
東洋ピアノの創業とほぼ同じころに生まれ、今では孫もおりますが、お陰様で本日もこうして仕事に取り組むことが出来ております。社会に出てからこれまでずっとピアノと共に生きて参りました。今後も心身の健康が続く限りは、ピアノと共に生きて行きたいと思います。